My dear





「惇兄様!」

夕日が紅く差し込む宮中の回廊を一人歩いていた夏候惇は、たたた、と聞こえる軽い足音に口許を緩めて振り向いた。
そのまま胸に飛び込んできたその少女は直ぐに顔を上げ、満面の笑みで夏候惇を見上げる。

「もう、今日のお仕事はお終い?惇兄様」

「ああ。どうした?」

腕の中の少女は名を夏候と言う。夏候淵の年の離れた妹で、夏候惇にとっては従妹に当たる。
そして、夏候惇にとって何より―――大切な、存在。

「うん…えっと、あのね」

言い淀んだに首を傾げながらも、夏候惇は催促せずが話し始めるのを待ってやる。

「今日は淵兄様忙しくって、家に帰れないって言うの。だから…えっと」

再び詰まったが何を言いたいのか夏候惇は既に察していたが、少し意地悪をしてやろうと、態と黙ってを見詰めた。
は困ったように夏候惇を見上げていたが、やがて決心したのか、頬を赤らめながらも小さな声で言った。

「…一人じゃ淋しいから、惇兄様と一緒に…帰ってもいい?」

己が図った事ながらもの可愛らしさに夏候惇は思わず笑みを漏らし、頑張ったを労るように彼女の頭を撫でてやった。
は未だ恥ずかしいのか、夏候惇の腕の中で落ち着かない様子でたじろいでいる。
全く、想いを交わしてから随分と時が経つのに、の初々しさは少しも変わらない。
小さな恋人に再び笑い掛け、夏候惇は漸く彼女を解放してやった。

「当たり前だ」

夏候惇の返事に安心したのか、ははにかんだ声で嬉しそうに礼を言った。






夏候惇の邸にが居ることはさほど珍しいことではなかったが、かと言ってありふれた光景という訳でもなかった。
と言うのも、夏候淵に付いて来ることはよくあるが、一人で来ることが少ないからである。
夏候淵は常に夏候惇を純粋に慕っているが、が関わると面白いほどに頑固になるのだ。
兄馬鹿というか何というか―――とにかく妹の外泊をなかなか許さない。

そんな事情もあってか、が一人、しかも泊まっていくという思わぬ収穫に夏候惇の機嫌は頗る良かった。
最も、当人であるはそんなことは露知らず、先程から大人しく夏候惇の膝に座っている。

恥じらいはしても嫌がりはしない。
それは何よりが夏候惇を好いている証拠であり、夏候惇は膝の上の小さな恋人をぎゅっと抱き締めた。

「眠いのか?

「ん…ちょっと疲れた」

睫毛の長い瞳ををぱしぱしと瞬かせるの耳元で、夏候惇は囁いた。
は本当に疲れているようであり、ならば今日はもう寝かせてやろうと夏候惇は思う。
無論男である以上、夜の寝室で愛しい少女を抱き締めていて何も思わない筈はないのだが、がしたいことをさせてやりたいと思う気持ちの方が勝っているのだ。

この少女の全てを包み込む存在でありたい。

しかし当のはまだ寝るつもりは無いらしく、目を擦って夏候惇を見上げた。

「あのね、まだ…やることがあるの」

「…何だ?」

の微妙な言葉に苦笑した夏候惇を、彼女は困ったような、照れたような顔で見詰める。
はそのまま夏候惇の胸に顔を埋めてしまい、暫しの沈黙が二人を包んだ。

夏候惇は、何も言わないの行動をどう解釈したものか迷っていた。
先程のの言葉と照れたような表情、そして身近に感じられる彼女の体温は夏候惇の理性にとって有り難いとは言い難い。
仕方無く、どうかしたのかと彼女の名を呼ぼうとした…その、瞬間。

ふ、と。

唇に触れる柔らかな感触。
一瞬、それが何なのか夏候惇は解らなかったが、その感触をもたらしたのがのそれだと気付いた彼は、自分の躯が一気に熱を帯びたのを感じた。
その熱を押さえ、夏候惇は何とか声を絞り出す。

…?」

「…///」

は夏候惇から目を反らし、真っ赤な顔をして俯いた。
普段が自分から口付けをすることなど有り得ない。突然のの行動に、夏候惇の胸中は驚きよりも嬉しさの方が勝っていた。

「…今日ね、甄姫様がね…」

「…甄姫殿?」

しかし、やっと言葉を紡いだの口から出た名前に夏候惇は顔を顰める。
何故此処で甄姫が出て来るのか疑問に思いながら、夏候惇はが言葉を続けるのを待った。

「…『愛しているのなら、自分から求めることも必要ですわ』…って言ってたの」

「……」

一体何の話をしていたんだと心の中で突っ込みながらも、頬を染め、目を輝かせながら甄姫の話に聞き入るの様子が容易に想像出来て、夏候惇は軽く吹き出した。
は甄姫を大層慕っていて、彼女に憧れているらしい。―――だから言葉に従ってみたのだろうが。

理由など関係なく。
やはり嬉しい。愛しい少女が、自分に触れてくれることは。
『愛しているのなら…』
が自分を愛しいと思ってくれることが―――嬉しくて、愛しい。

の頬は相変わらず赤く、何も言わない夏候惇に不安を感じたのか、上目遣いで彼の瞳を見上げてきた。

「やっぱり嫌だった?惇兄様…」

その、少し潤んだ大きな瞳が―――堪らない。

「…

「わわっ!惇兄さっ…んん」

流石に我慢出来そうにない。するつもりもない。
求める心が互いに等しいのならば、愛する少女の全てが欲しい。自分の全てを受け止めて欲しい。
今度は夏候惇がを抱き締め、その唇を強く、塞ぎ。

「…兄様、では無かろう?」

「…元譲、さま…///」

悪戯に笑う夏候惇の言葉に頬を染めながらも、は素直にその名を呼んだ。
だけの呼び方と、自分しか知らないの姿。

…愛している」

囁くように呟く夏候惇の言葉に、は擽ったそうに身を縮めた。
全てが甘い空間に寄り添うのは幸せな二人で―――…

「…私も…元譲様が大好き」

夏候惇は優しく微笑んで、の小さな躯を抱き上げた。

長い長い二人の夜は、まだ始まったばかり。








正直言って、ちゃんに自分から迫らせてみたかっただけです(笑)
短い上に単なる甘々で御免なさい〜…
兎に角、只管ちゃんにベタ惚れの惇兄でした♥
それにしても、うちのヒロイン達は幼い・大人の差が極端ですね…
…これからって所で終わって申し訳ないです(笑)


おまけ


「惇兄!返せ!」

「何だ妙才…騒がしい」

曹操の執務室に勢いよく飛び込んできた夏候淵に、曹操が顔を顰めた。
隣にいた夏候惇は、涼しい顔をして従弟を見遣る。

ならまだ寝ていると思うが?」

さらりと言ってのけた夏候惇に、夏候淵は言葉に詰まって固まった。
二人の会話から事情を察したのか、曹操は成る程、と呟いて夏候惇を見た。

「元譲の機嫌の良さの原因はか」

やはりとでも言いたげな曹操に、夏候惇はにや、と笑う。

「悪いか?この上なく愛しいのでな」

再び固まった夏候淵の表情に、曹操は思わず吹き出した。
今日も平和な一日が始まる。





…こんなの乱世じゃないって突っ込みは無しで。
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