大河



「……か」

孫堅は振り返らず、背後の気配からの視線に応える。
目の前に広がるは、果てしなく雄大な流れ。

「殿。執務が残っていらっしゃるのではないですか」

と呼ばれた女性―――まだ少女の面影を残した彼女は、嘆息しながら呟いた。
その、小柄で華奢な躯に纏っているのは紅蓮の鎧。
は、歴とした呉の武将だった。

「周瑜殿がご立腹寸前でしたよ」

振り向かない孫堅の背に、は続けた。
長男・孫策程ではないが、この大殿も度々、こうして城を抜け出して下さる。
その度に迎えに来るのは、何時も決まってだった。
特に理由がある訳では無いが、何時の間にかそうなっていたのだ。

「…殿」



再び溜息をついたに、孫堅が顔を向けた。
丁度夕日を背にして立つ孫堅の表情は、逆光となりにはよく見えない。
だが、何か真剣な雰囲気を感じたは黙って孫堅を見遣った。

「…覚えているか」

僅かに目を細めて、孫堅がに唐突に問うた。

「丁度一年前、此処でお前と出逢った事を…覚えているか、

「…はい」

真っ直ぐに、孫堅を見詰めるの視線。

「…忘れる筈が、有りましょうか」

自分の一生を捧げる決心を、忘れる訳がない。
あれが、全ての始まりの日。

知らず、は破顔した。

その笑顔がとても綺麗で、余りにも儚くて、孫堅は思わず息を呑んだ。
には孫堅の姿が、輪郭が夕日の影となってくっきりと見えている。
―――が、孫堅から見たは…光に正面から照らされ、衣装と夕日の朱が同化しているかのようで。
余りに美しい紅に、そのままが溶け出してしまいそうで。
孫堅は思わず、の細い腰に腕を回した。

「と、殿?」

少しばかり動揺したようなの声に構わず、孫堅は更にきつくを抱き寄せた。

―――あの日から、一年前のこの場所から、全ては始まった。



「―――こんな所で、何をしている?」

何をするにも落ち着かず、孫堅は邸を抜け出して歩いていた。刻は既に夜。
黒く水を称える河の前で一人の少女が佇んでいるのが見え、不振に思った孫堅は彼女に声を掛けた。

「もう遅い。早く帰った方が良いのではないか?」

少女は孫堅に目を向けた。

「貴方は、人の事が言えるのですか」

「…俺は一応、大人の男だからな。此処の治安が良くない事は知っているだろう」

少女は苦笑した男から興味無さそうに目を背け、きっぱりと言った。

「私は大丈夫です。お気遣いには感謝します」

孫堅は、少女が手に小振りの槍を持っている事に気付いた。

「成る程、腕に自信が有るという事か?」

「そうですね」

「…そんなに、甘くはないぞ」

何処かからかうような男の言葉に、少女は眉を寄せた。
そして真っ直ぐ彼を見、静かに言う。

「信じられないのなら、試してみますか」

「……」

「それとも、女子供は相手に出来ませんか」

「否、そこまで言うのなら試してみても良いぞ…名は?」



怯みの無いその声を気に入った孫堅は、己の愛剣を構える。
彼が真剣を使うとは思っていなかったは僅かに驚いた顔を見せたが、それも直ぐに元に戻り。

「…。何処からでも良いぞ」

二人は正面から向き合った。



先に動いたのは、だった。
小柄な体格に見合った素早い動きで、男の脇を狙って飛び込む。
それを受け止めた孫堅は間を置かずの槍を払おうとするが、はそれを難なくかわす。
―――力で比べてもどうしようもない。
ならば、相手よりどれだけ素早く立ち回るか、だ。

孫堅はの俊敏な動きに舌を巻いた。だが、仮にも己は…
―――そう、明日まさに、戦場に赴こうとしている将で。

次の男の攻撃をかわしきれないと判断したは、咄嗟にそれを受け止めた。
衝撃は、激しい。
腕が痺れる程の力―――それでも、槍を取り落とす事はしなかった。

その様子に男は目を細めた。



「…未だ、勝負の途中です」

「…それだけの腕があれば、確かに心配は無用だろう」

は目の前の男を見上げた。
正直、敵わないと思った。こんな経験は初めてで、戸惑うに彼は続ける。

「…貴方は、一体」

「お前こそ、何故これだけの腕を?相当鍛錬を積んで来たのだろう」

「……」

暫しの、沈黙。

「…兵に、なりたいのです」

「…何?」

「孫堅様の軍に、入りたいのです。私はもうこれ以上、この乱世を黙って見ているのが嫌だった。
…しかし、まともに行った所で、兵卒はおろか、雑兵にもしてもらえない―――女だから、子供だからと言って…!」

そう言ったの表情は心底悔しそうだった。
乱世を憂える気持ちは万人に等しく在るのに。
それを打開するために―――自ら動く事の出来る者と、出来ない者が居るなんて。
あんまりだと、そう思って。

「だから、強くなったら、他人が遙か及ばないような実力をつけたら、なんとか…なるかと思って…」

「…ああ、強いな。」

頷く男の瞳が優しい事に、は気付いていないが―――

「でも、やはり未だ未熟なようです…」

「…ならば、俺と共に来るか?」

少し悪戯っぽい男の表情に、は虚を突かれたように、暫しぽかんとして。

「…俺と共に来て、一緒に上を目指すか?」

再度問う目の前の男が、何故かは信頼出来るような気がしてならなかった。
今日初めて会った、名も知らぬ男が。
一緒に来い、等と。―――信頼出来る、等と…?

「貴方は…」

「孫堅だ」

は目を見開いて、その名を頭の中で反復する。

「俺の名は孫文台。我が軍の将として、共に来てくれないか…

あの日、あの言葉から、全てが始まった。

丁度一年前の今日。孫堅が初めて本格的に乱世に乗り出す戦の…前日の夜に。
二人は、出逢った。




「もう、一年になるのですね…」

は身を屈めて己を抱きしめる孫堅の肩越しに、目の前の大河を見詰めながら思う。
まだ踏み出したばかりの己達…この一年よりももっと、次の一年は大変だろう。
その次は、おそらくもっと…

この主の…そして自分、自分達の行く道には。
きっと、この広大な流れよりも、多くの苦難が待ち受ける。

―――そうして繰り返して、繰り返して、いつの日にか。
行き着く安寧が存在するのだろうか。
否、辿り着いてみせる。そう…信じている。

夕焼けの色を鮮やかに映し出す、巨大な流れ…
本来、その流れに移る空は一つなのだから。

「…殿、如何なされたのですか」

動かない孫堅に、少々柔らかくなったの声が掛かる。

「…ずっと言いたかった」

漸く言葉を返した主…それは普段の彼のものとは違う、掠れた音声で。

「何時もこうして、何も言わずに抱き締めるしかなかったお前に…」

初めは、その秘めた炎を持つ瞳に惹かれた。
次に、その鮮やかな腕前と、何処までも純粋な心に興味を持った。
そして共に過したこの一年の中で、徐々に色を増すそれら―――

真っ直ぐな心、瞳、武。

時々こうして何も言わずに抱き締める己を、只同じように黙って受け止めていたは。
一体、何を思っていたのかは判らないけれど…

何時の間にか、全てが愛しかった。
自分の娘と大して齢の変わらぬ少女に―――恋を、した。

「…お前が好きだ、

隠しきれない感情。罪かもしれない…それでも、伝えたかった感情。

「…殿…?」

一年前、男の素性を聞かされた時に劣らぬ衝撃がを襲う。
見開かれた瞳に、切ない顔をした孫堅の姿が映る。

「ただ、聞いて欲しかっただけだ…すまん」

苦笑した己の主。―――主、君主、使えるべき人。
しかし、本当はずっと―――…

「―――帰るか」


離された腕が酷く切なく感じられて、は俯いた。
こうして何も言わず己を抱き締める主に…胸を高鳴らせては、いなかったか。
…お疲れなのだ、と自分に言い聞かせて。それは、必死で押さえた鼓動を―――


『…お前が好きだ、


「…ん、様…」

「…?」

「孫堅様…!」

あの日以来初めて呼んだその名は、余りにぎこちなくて、余りに切なくて、余りに甘くて。
互いの胸を震わすには、十分な響きだった。

「…き…で…っ、私も、好き、です…!」

先程の自分よりも、見開かれた主の瞳。
この世で一番、大切な人の瞳。

見ていたら、無性に涙が溢れた。
ずっと抑えていた感情が、河のように流れ出す。

…っ!」

再び回された腕と密着した躯、を呼ぶ孫堅の瞳に浮かぶ熱。
互いの感情の流れは合流して大河をなす。

「…が愛しい」

真っ赤に染まった目の前の大河と、胸の中の大河。

「……私も」

―――貴方が愛しい、孫堅様。

行く道にも。
この恋にも。

多くの苦難が、待ち受ける。


―――それでも。


貴方の為ならば
貴女と共にならば

何処までも行こう。

広大な流れと共に。








お題一つめは堅パパで。 私的な孫堅像はこんな感じです。
堅パパは、父親としても男性としても素敵だと思うんです。
そして、何時までも熱い。色んな意味で熱いと思います。
そんな殿が大好きですv

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