変わらぬ日常
―――こんこん。
「あ、はい。どうぞ」
久々の休暇に暇を持て余していた陸遜は、結局執務室に戻ってきてしまった自分に心中で苦笑していた。
別に仕事をしたい訳ではないのだが、他にやる事も見つからない。
仕方無い…と書簡に手を伸ばし掛けた瞬間、部屋の扉を叩く音がした。
入って来たのは愛らしい少女―――名を、という。孫堅の末の娘で、この国の姫君である。
「陸遜様!今日はお仕事お休みって本当ですか?」
唐突な問いに驚きつつも、元気なの様子に微笑んで陸遜は頷いた。
「はい、様。周都督が偶には休めと仰るので…」
「そうですね、陸遜様は何時もお忙しいから…じゃあ、やっぱりゆっくり休まれないとですよね」
はしゅんとして、お邪魔しました、と出て行こうとする。
の表情が先程より寂しそうで、陸遜は焦って彼女を引き留めた。
「姫様?何かご用が有ったのでは」
「…はい、でも…」
「良いですよ、何でも仰って下さい。何をして良いやら解らないので仕事でもしようかと思っていたくらいですから」
「そうですか…?」
陸遜の言葉に気を取り直したらしいは、幾分控えめに当初の用件を話し始めた。
「もしお暇だったら、一緒に街へ行ってくれませんか?」
「街へ、ですか?」
「兄様が、一人で行っちゃ駄目だって言うんです…」
兄様、とは孫策か孫権か、或いは兄同然に慕う周瑜か。
三人とも可愛い末妹にやや過保護な面がある為、誰の言葉であったとしても頷けるが。
は尚香と違って武将ではない為に、その心配は何時も三割増だった。
「私で宜しければ、喜んでお供致しますよ」
「―――ほんとですか?」
ぱあぁ、と明るくなる表情は先程とは一変して眩しい笑顔で。
ころころ変わる表情がとても可愛くて、陸遜は僅かに頬を染めた。
この姫のお願いに逆らえる人物は恐らくこの呉には居ない。
「はい。直ぐに用意しますので、少しだけ待っていて下さい」
「ありがとうございます〜!」
嬉しそうなの声に陸遜は再び破顔した。
「それで様、どちらに行かれるのですか?」
「市場です〜。買いたいものがあるのです」
やはりは楽しそうだった。
はこうして市街に行く事をよく好む。
姫君なのだから買い物など専属の商人からいくらでも出来るが、本人が言うには
『みんなが居る街の方がずっと楽しいです』
―――そういう姫なのだ。
その分け隔て無い性格は、民にも多く慕われて止まなかった。
「様!お久しゅう御座います」
「お久しぶりです、おじさん!」
「姫様、今日もお可愛らしくあられて」
「もう!そんなこと無いですよ〜?」
「ひめさま、おかいものですか?」
「そうよ。あなたもお買い物なの?」
「はい!おかあさんといっしょに」
「良いわね〜!」
の周りには、自然と人が集まる。そして、笑顔が。
微笑ましい光景に、陸遜は乱世の向こうの平和とはこんな感じだろうか…と思いを馳せた。
「陸遜様、行きましょう」
「あ、様!」
何時の間にか陸遜の傍に戻って来ていたは、言うやいなや走り出してしまう。
陸遜は天真爛漫な姫君の後を急いで追い掛けた。
「これ可愛い〜!」
先程からは一つの耳飾りに目を奪われている。
薄桃色のそれは確かに品良く可愛らしく、さぞ彼女に似合うだろうと陸遜は思った。
「お気に召したなら購入されては如何でしょう?」
「あ!駄目駄目、私ったら自分の物を買いに来たんじゃないのに〜」
こういう所、はとても慎ましい。
勿論買えない訳は無いのだが、自分の物に沢山お金を使う事をしないのだ。
「うー…ごめんなさい、行きましょう陸遜様」
とぼとぼと歩き出すは本当に感情がそのまま表情に出ている。
陸遜は笑って、の後ろ姿を見逃さないように視界に収めつつ、素早く店員を呼んだ。
(やはり私も、甘いですね…)
顔が緩みっぱなしの陸遜は、小さな包みを懐に入れての後を追った。
「あ!」
「どうなさいました?」
「これ〜!」
が目を輝かせて手に取ったのは、割と高価な物だと解る上品な髪飾りだった。
とてもすっきりした形状で、燃えるように紅い宝石が一つ使われていた。
しかし―――…
(男物…?)
女性用ではない。歴とした男性用の髪飾りだ。
「姫様、それは」
「贈り物にするんです」
今日一番の嬉しそうな表情ではそう言った。
(贈り物―――)
陸遜は思わず俯いた。
ちくり、と自分の胸が痛んだのを感じたが、何とか笑顔を作り直してに向き直る。
「それは…相手の方もさぞ喜ばれるでしょう」
「じゃあ、これ買ってきます!ちょっとだけ待ってて下さい〜」
ぱたぱた、と店の奥に走っていったの後ろ姿に陸遜は苦笑した。
何時の間にか誰かとそう言う関係になっていたのだろうか。
髪飾りを着けるような…誰だろう、文官辺りだろうか。
「…陸遜様〜?」
「!ひ、姫様」
またしても何時の間にか戻ってきたは、固まっている陸遜を不思議そうに覗き込んだ。
大きな瞳に下から見上げられて、陸遜は自分の鼓動が大きく跳ね上がったのを感じて苦笑する。
「お待たせしました!」
「…もう宜しいのですか?では戻りましょうか」
感情を無理矢理押し込めて、陸遜は何とかを見て言った。
二人が城に戻って来た時には、空が朱に染まり始めていた。
「陸遜様、今日はほんとにありがとうございました!とっても楽しかったです」
「…いえ、貴女の為なら何時でも」
「ごゆっくりお休みになって下さいね」
「はい。―――…は、これは周都督…本日はお気遣いを頂き」
「へ?」
の後ろから歩いてきた周瑜に気付いた陸遜は礼を取って頭を下げた。
は驚いたように振り向いて、大好きな兄を発見し…飛び付いた。
「公瑾兄様!」
ぱふ、と胸に飛び込んできたを軽く受け止めて、周瑜は陸遜に苦笑した。
「陸遜、今日は済まなかったな。折角の休暇にに付き合わせて」
「いえ。私も楽しませて頂きました」
「そうか。…良かったな、楽しかったか?」
尋ねる周瑜の表情は限りなく優しい。
本当に大切なのだろう―――この小さな義妹姫が。
「はい!」
周瑜の胸から顔を上げ、彼を見上げて嬉しそうに答えるは殊可愛らしかった。
「―――そうだ、あのね、公瑾兄様」
不意に思い出したようにが周瑜から離れた。
「どうした?」
「これ、公瑾兄様に」
が取り出したのは―――先程の髪飾り。
「、これは…」
「公瑾兄様、お誕生日おめでとう」
微笑んで告げたに、周瑜と陸遜は揃って驚いた顔をした。
そんな二人を余所には少し背伸びをして、周瑜の結われた―――仕事中は邪魔にならないように上げてある―――部分の髪に髪飾りを差し込んだ。
美周郎の名に違わぬ美貌に、深紅の光を放つ宝玉はとても良く映える。
「―――…有り難う」
不意に緩んだ周瑜の表情は、陸遜でも目を奪われるくらい優しく、秀麗だった。
周瑜の感謝の言葉に、も照れたように笑った。
「これは存じ無く…申し訳有りません、おめでとう御座います周都督 」
「否、私も忘れていた」
苦笑する周瑜に驚きが去ると、陸遜の胸にも温かいものが溢れていた。
本当に仲の良い、麗しい兄妹。
―――そして、何より。
(周都督 …だったんですね)
贈り物の相手が周瑜だったことに、陸遜は少なからず安堵していた。
大好きな兄へ、誕生日の贈り物を。
らしいと思う。勝手に邪推していた自分が可笑しかった。
(…深読みし過ぎも良くないですね)
まだあどけなさの色濃く残る姫君。
焦ることはない…ゆっくりと見守りながら、いつか。
―――この気持ちを伝えることが出来たら。
「公瑾兄様、やっぱり忘れてたんですね。でも今夜は宴ですよ?」
「…宴?」
「策兄様ったら、昨日から張り切って準備してたんですよ?…お酒の」
くすくす、と笑ったの言葉に、周瑜は呆れ、陸遜は忍び笑いを漏らした。
「…全く、孫策は…」
「…若殿らしいですね」
いつもの風景。
乱世の合間の、穏やかに優しい時間。
「…ならば残りの仕事を片付けて来なければだな。、陸遜、また後で…有り難う」
再度礼を言って、周瑜は暫し執務に戻って行った。
「良かったですね、様。喜んで下さって」
「はい!陸遜様のおかげです」
その笑顔には、本当に、敵わない。
「ではこれは、今日一日楽しませて下さった姫様に私から」
陸遜が取り出した小さな包み。
中身は勿論、あの薄桃の耳飾りで。
陸遜はそれを、が周瑜にしたように、彼女の耳に付けてやる。
「陸遜様…」
「良くお似合いです、姫様」
「―――ありがとうございます!!」
「ひ、姫様!?様〜////」
嬉しさの余り、は思わず陸遜に抱き付いた。
陸遜は顔を赤くしながらも、やはり表情は嬉しそうで。
束の間の平和でも。
この時間が愛しい。
「なんだ周瑜、良いじゃねえか髪飾り!どうしたんだよ色男〜!」
周瑜はふと笑ってから、豪快に肩を叩く親友に溜息を吐いた。
「飲み過ぎだ孫策、もう酔ったのか」
「ほんとだ。似合うわよ、周瑜」
「有り難う御座います尚香様」
次の尚香の素直な感想には、素直に礼を言って。
「も新しい耳飾りか?」
「はい、綺麗でしょう?権兄様」
と孫権の会話に割り込んだ孫策がを抱き締め、陸遜が慌ててそれを止める。
「似合うずぇ、流石俺の妹だ!」
「みゅ!策兄様、やっぱり飲みすぎです〜!」
「若殿、姫様が潰れます〜!!」
「ははは、元気なのは良いことだ」
そしてこの賑やかな兄妹の父親はと言えば、暢気にそれを眺めて笑うだけ。
は周瑜を見、陸遜を見、再度幸せそうに笑った。
周瑜と陸遜もその視線に応え、微笑む。
大切な、いつもの時間。
どうか変わらないで
何時までも、このまま―――
*
*
*
男性でも髪飾りはつける…と思いたいです。
連載設定のヒロイン。愛されまくってます。
この設定の兄様達(特に周瑜)は激しくシスコン(笑)なので、書いてて楽しいです。
そして珠瓔は白陸遜、結構好きです。
何時も苦労して、時間が経つに連れて色々背負い込んでしまうことになる彼に、こんな安息があったら良いなぁと。
日常って変わらないもののようですが、変わらない日常って本当は有り得ないと思います。
だから陸遜の願望と言うことで。
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