守りたいもの
守るべき方。
一番、大切なひと。
躊躇いなんて、無かった。
「―――っ!?」
情け無いを通り越していっそ滑稽にさえ思える。
圧倒的有利であるという事実に慢心したのか、自分としたことが…呉蜀の策を見抜けなかった。
これ以上、火炎の中に軍を留まらせておくことは出来ないだろう。
撤退する他、無い。
赤壁の戦い、曹操軍敗北―――…
生き残った僅かな手勢と将を連れ、曹操は退路に立っていた。
敵の軍師の策により次々と立ちはだかる障害に、徐晃、許チョ…一人ずつ立ち向かって、背後に残っていった。
今自分の元に残るは張遼との二人のみ、そして目の前には関羽。
張遼は関羽の前に進み出た。
「殿、関羽殿は私がお相手致します。どうかお先に」
関羽を真っ直ぐ見たままのその言葉に、曹操は頷く。
―――これで、自分は逃げおおせるだろう…
「…必ず戻って参れ、張遼」
「御意」
後は、将達が全員無事に戻って来てくれれることを祈るしか無い。
曹操はその場に、背を向けた。
「此処まで来れば良かろう…」
曹操は馬の速度を緩めて呟いた。
「よくも生き長らえたものよ…」
自嘲を含んだ笑みで振り向いた曹操は、背後に従うたった一人の将―――が、険しい顔をしたまま気配を張り詰めていることに気付いた。
お主にも済まぬことになった、―――そう、言おうとした瞬間。
己の体が宙に浮いたことを感じた。
―――っっ!
凄まじい殺気、空を斬る音、誰かが触れた感触、自らを襲った衝撃。
「―――っ!?」
「…殿っ!!ご無事っ、ですか…っ!」
何が起こったのか、一瞬理解できなかった。
目の前に、が居た。手には得物を持ち、その切っ先には敵の残兵と思われる男が倒れている。
こんな所まで追ってきたのか…漠然とそんなことを思った。
落馬した衝撃で体中が痛かったが、大した怪我はしていないようだ…自分は。
しかし。
の体を染めるは、明らかに返り血だけでは無かった。
苦しそうに歪められた表情が、それが気のせいではないことを物語る。
が咄嗟に曹操を突き飛ばし、敵残兵の攻撃から曹操を守ったのだ。
その、躯を盾として―――……
「…殿、まだ油断は、ならないようです…っ。先に、お進み下さい…夏候惇殿の、いらっしゃる所まで…!」
「…何を言うか、!それは放っておいて良い傷ではなかろう!」
「…お守りすること、叶わぬなら…ただの、足手纏いです…」
そう、私を置いてでも。
考えなくてはならないのは殿の、御身の安全―――
「…!」
自分が逃げねば、と頭では分かっているのに。
此処でまた自分に何かあれば、の怪我も無意味になってしまう。
なのに、どうしても足が動かなかった。
その場で固まったままの曹操に、焦れたようにが叫ぶ。
「殿!!」
―――早く、一刻も早く安全な場所へ。
「…と、の…っ」
瞬間、背中に激痛が走った。やはり、傷は浅くない…目眩が襲い、意識が遠退く。
どうか、殿を無事に。
の意識はそこで途切れた。
―――貴方のためなら命など惜しくない。守ると決めた…この方に、全てを捧げると。
大切な、大切な己の主君を。私の、守るべき方で、私が、守りたい方を。
大切な、大切なひとを。守るためなら…―――
「…と…の…」
「…殿?」
が意識を取り戻したのは三日後、場所は自分の邸だった。
そして、傍に居たのは張遼。
「…あ、れ…?張、遼殿…?」
「はい」
「…っ殿は…?」
「大丈夫。殿はお怪我も無く、ご無事です」
「…良かった…」
咄嗟に勢いよく体を起こしてしまったを緩やかに手で促して床へ戻しながら、張遼は言った。
その言葉に安堵したは体の力を抜き、そして未だ鈍い痛みが残る背中に眉を寄せた。
「殿、背中が痛むようなら楽な体勢で」
「大丈夫、です。張遼殿こそ、関羽殿と戦ったのでは…」
憂慮の色を含んだ瞳に見上げられ、張遼は穏やかに首を横に振った。
「関羽殿は殿への恩義で軍を引いてくれた。従わなかった者が居たようだが…」
…その所為で、貴女が。
「…そうですか。その様子では、皆大事は無いようですね」
心から安心した様な柔らかな微笑みを見せたに、張遼は一瞬、複雑な顔を見せた。
…そうやって自分より他人の心配をする様も。
…貴女を想う者としては、辛い心地なのですよ?
「…張遼殿は、どうして」
どうして此処にいらっしゃるのか、と続けようとしたの疑問を汲み取って、張遼は僅かに苦笑する。
つい先程まで、曹操が来ていた事、自分はその護衛として付いてきた事…事の経緯を話すと、は些か驚いた顔を見せた。
「殿が?」
「どうしても殿の容態を見に行くと仰って」
「そうですか…」
「もう大丈夫だと確認されて、急いで宮に戻られましたが」
…あの方の、殿を想う気持ちは本物だ。
例え大怪我を負ったのが重臣だとしても、大戦の―――しかも敗戦の後の大変な時に君主自らが見舞うなどという事は普通有り得ないのだ。
結局、そうで無くとも自分には解ってしまうが。…同じ、気持ちを持つ者だから。
―――に向けられた、二つの慕情が共鳴するのだ。
「…張遼殿にも、ご面倒をお掛けしてしまいましたね」
苦笑して呟いたに、何を言うか、と張遼は首を振った。
「面倒等と。殿の事を心配していたのは私とて同じ事…」
夏候惇の腕に抱かれた、大量の血を纏い意識を無くしたを見た時は本当に…心臓が止まるかと思った。
曹操を庇って怪我をしたを、曹操が夏候惇の援軍の所まで自ら抱え走ったと、後から聞かされた。
その状況では、間違いなくは自分を置いて行けと言った筈だ。
曹操の取った行動は、君主として必ずしも褒めるべきものではないかもしれない。
常に我が身を一番と考えなければならないのは、君主たる者の、半ば義務なのだ。
それでも、張遼は曹操の心情が理解できるし、また感謝もしていた。
人としては当然の情で―――愛しい者を守ったのだから。
―――が曹操に対して同じ事をしたように。
「…ありがとうございます」
「それでは私もそろそろ戻ります、殿…どうぞお大事に」
含みの無い綺麗な笑みを残し、張遼はの寝室の扉を閉めた。
「…解っている」
城へ戻る途中の馬上で、張遼は独りごちた。
僅かな苦笑と、瞳に宿る微かな哀の色―――それ以上に優しさを秘めた、先程、に曹操の来訪を告げた時と同じ表情で。
「彼女が誰を想っているかなど…」
とうの昔に、解っている。
「殿…」
は一人になった部屋で、安堵にゆっくりと溜息を吐いた。
守りきれた、守るべきものを。
―――守りたかった、大切な者を。
曹操がの邸を訪れてから早くも一ヶ月が経った。
はなんとか怪我も治り、久々に通る城門にやっと戻って来た日常を感じていた。
焦がれていたのは単なる日常ではないけれど。
―――あのお方の居る、日常だけれど。
淡く微笑んだは、曹操に復命の報告をすべく宮中へと向かった。
が戻ってくる。
それだけの事で落ち着かない自分を情けなく思う余裕すらなかった。
一月前に訪れた時、眠る彼女はもう心配ないとは言え苦しそうで、自分の所為だと思うとどうにもいたたまれなく感じた。
自分はもう何も解らぬ年若い青年ではないし、この気持ちの根元などとうに解っている。
そして―――が自分を恋慕っている事も、その想いを封じて終生忠臣として生きようと決意している事も。
知って、いる。
儚いまでに一途に自分を守り続けてくれる。
それは曹操にとって喜びであると同時に、些かの寂しさも感じさせるものであった。
彼女に「君主」として慕われる日々は何時も何処か苦しいのだ。
それでも全ての関係を壊すのが怖くて、汚れた自分では何処までも純粋なを腕に抱く資格など無いと怯えて、どうしても想いを告げる事など出来ないのだ。
…乱世の奸雄が聞いて呆れるわ。
静かに自嘲の笑みを漏らした曹操は、そろそろが入ってくるであろう扉を見詰めて厳粛な表情を取り戻した。
「殿、です」
「うむ。入れ」
眼前に跪いたは少し痩せたように見える。
「、此度は済まなかった。負け戦とは言え、一番の戦功はお主だ」
「いえ…」
「怪我は」
「大丈夫で御座います。ご心配をお掛けして…」
「嘘を」
吐くでない、と言葉を遮られたはきょとんとして曹操を見た。
「殿?」
大丈夫な訳があるか。
あれだけの怪我を負って、一月やそこらで完全に治る筈が無い。
歩けはするのだろうが、未だ相当辛いだろうし、しかも治ったとしても…跡が残ってしまうだろう。
「しかし、殿、本当に大丈夫です。貴方がご無事なら私は自分がどれだけ傷付いても構わない」
「……」
「この身尽き果てるまで、貴方様にお仕えすると誓いましたから…」
…違う。欲しいのはそんな言葉ではない―――っ!
「…儂は嬉しくない」
自分の言葉に、急に厳しくなった曹操の表情と声色には戸惑いを感じたが、主の前で狼狽える訳にもいかず、黙って曹操を見詰めた。
その視線の前に曹操はゆっくりと席を立ち、数段の段差を降りて、跪くの直ぐ傍に立った。
流石には驚き、顔を上げて曹操を見上げる。
「殿…何かお気に障る事を…?」
「」
曹操はの顎に手を掛け、その瞳を見詰めながら言い聞かせるように告げる。
「お主が儂の為に果てるなど論外だ」
「と、殿」
「儂の前で傷付くそなたを見るは辛い」
「……」
「己を大切にせよ…」
「…っ!?」
曹操はの腕を掴んで彼女を立たせ、自らの腕の中に封じ込めた。
狼狽するが己の手中から抜け落ちぬように、しかしの傷に障らぬように、曹操は緩やかに力を込めて細い躯を抱き締める。
「…儂は…お主が大切なのだ」
は静かに目を見張る。
「…失いたくない。愛しいのだ、」
「…と…の…?」
何時も威風堂々とした彼からは想像できない程に掠れた声で言葉を発する曹操に、はどうして良いのか解らなかった。
しかも。
今、自分は何を言われたのか。頭が付いていかない。
―――愛しいのだ、
「っ―――!?」
「あの時」
曹操の表情は、もう険しくはなかった。
向けられる柔らかな瞳は、ただだけを見詰める。
「君主の義務を捨て置いてもお主を救いたいと思った」
「殿、何を…」
「何度でも言う」
儂はそなたが愛しい、。
呆然と曹操を見詰めるの瞳に宿る雫。
本人がそれに気付く前に、曹操の指先が彼女の目元を拭った。
「…泣いてくれるか、」
は無意識に溢れる想いを止めることが出来なかった。
使えるべき君主で、命を掛けて守るべき人で。
本当は彼の人にずっと恋い焦がれていた事は、自分が一番知っていた。
それでも、封印して―――ただ、仕えて。
「……守りたかった。何をしてでも…貴方を…っ」
守るべきだからではない。
守りたいと思ったのだ。
「…貴方が……愛しいから…」
愛する人を守りたいと思う、互いへの慈しみは今―――重なった。
涙を流すを見ながら、曹操は微笑んで力強く告げる。
「儂はお主を…決して失いはせん」
張遼は扉を背に一人微笑んだ。
流石、曹操には自分の存在など初めから解っていたのだろう。
張遼には分かる。これは―――同じく彼女を想う者への誓いの言葉だという事は。
が復帰したと聞いて、早く顔を見たくて、謁見の間の前で彼女が出てくるのを待っていた。
彼の耳には計らずとも、中の遣り取りは全て入って来た。
哀しく無いと言えば嘘になるだろう。
それでも、自分もまた守りたいと思う人間の一人だから。
大切な人の、大切な想い
それだけだ。
報われなくても良い…自分の守りたいものはただ一つなのだから。
「…見守るもまた、一つの幸せだろう」
張遼はゆっくりとその場に別れを告げた。
明日には、また笑顔で彼女と向き合えるように。
想いは三つ。
―――それぞれの愛の形を以て…
愛しいひとを、守らんが為に。
*
*
*
気持ちが解ってるからこそ伝えられなかった曹操と張遼。
張遼はこれからもずっとさんのことを想っていくんでしょう。
張遼は激しさと穏やかさ、両方を持ってて且つ大人な感じ。
必ずしも結ばれることだけが恋愛の成就じゃないと思います。…でも御免なさい張遼殿。
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