廻り廻る+砂上の楼+
あの日覚えた小さな違和感は解消されることなく趙雲の胸に存在したものの、時間は暫し平和に流れていた。
馬超はが極めて気に入ったらしく、または劉備三兄弟や諸葛亮・月英夫婦、姜維ともかなり親しくなった。
趙雲はの楽しそうな笑顔に心を和ませるようになり―――それは恐らく彼だけではなく。
乱世を、忘れるような空間に…しかし。
この婚姻の本来の意味を忘れた者はただ一人として居ないのだ。
趙雲、馬超、諸葛亮も―――尚香、そして、も。
政略、任務、同盟…
当たり前だと思っていた数々の言葉は、今や彼等の胸にのし掛かる存在となっていた。
「趙雲様?どうなさいました?」
思わず考え込んでいたらしい趙雲に、は笑って声を掛けた。
恐らく趙雲が何を考えていたか解っているからこそ、はこうしてより一層人を和ませるような態度を取る。
ただの、戦を知らぬ姫君ではなく―――は己の役割を踏まえた、賢い娘だった。
「鍛錬を見せて下さるんでしょう?早く行きましょう!」
悪戯に微笑む。
この少女が傍に居ることは、もう何十年もそうであったかのように自然なことに感じられた。
趙雲は何故此程までに自分の心がに拘るのか理解出来ないでいた。
否、解っているのかも知れないが―――気付かないように。
「申し訳無い…今参ります」
趙雲は既に前方に立つ少女を、瞳を細めて見詰めた。
―――きぃん!
鍛錬場には金属のぶつかり合う音だけが響いている。
対峙するのは趙雲と馬超、それをと姜維、関羽の三人が見ていた。
呉に居る時も、こうしてよく皆の鍛錬を見た。
周瑜と孫策や陸遜と呂蒙、甘寧と凌統や―――皆こうして打ち合っていて。
皆が強くなっていく光景を見ることは、自ら戦に赴くことの出来ないにとって安心を得る為の大切な時間だった。
―――帰りたくないと言えば嘘になる。
―――…此処に、居たくないと言っても嘘になる。
「趙将軍も馬将軍も、今日は一段とお強いですね!」
激しく打ち合う二人に姜維が感嘆の声をあげた。
何かをぶつけ合うように―――何かを吹っ切るように、武器を振るう二人。
「ははは、殿が見ているからではないか?」
「私が、ですか?関羽様」
不思議そうな顔をするに、関羽は曖昧な微笑みで答えた。
―――貴女の存在は、蜀にとって無くてはならないものとなりつつあるようだ―――
困ったような関羽の微笑みには、深い乱世への想いが秘められていた。
同じ頃、と尚香が不在の呉の地でも同じように鍛錬が行われていた。
「―――っておい、張り切りすぎだぜ軍師さんよぉ…っ!」
際どい所で相手の刃を避けたのは甘寧―――彼程の豪傑を押しているのは、意外にも軍師である周瑜だった。
周瑜が苛々している原因は皆解っていた―――否、誰しも多かれ少なかれ同じ気持ちを持っていた―――が、呉の最高司令官である彼が冷静さを欠くことは許されない。
「…済まない、甘寧」
周瑜は溜息を吐いて刀を下ろした。
「まぁ良いけどよ…姫様なら大丈夫だぜ、あの姫将軍が一緒に居るんだしな!」
自分が甘寧に宥められるという珍しい事態に周瑜は苦笑した。
分かり易く苛ついているという自覚は有るのだが。
「そうですよ、周都督 。様はお強い方です」
陸遜の言葉―――解っているのだが。
それでも、目の届く所に彼女が居ないと不安になるのだ。
―――権兄様、公瑾兄様!私も姉様と一緒に行きます!
自分を悩ませた彼女の台詞を思い出す。
…その存在は、まさしく自分の妹だった。
初めて出逢った時、主の末の姫は未だ幼い少女だった。
既に武芸の才能を表していた孫策や尚香とは違う、また既に何処か大人びた孫権とも違う、只管に純粋な姫君。
それは大切に、大切に育てられて来た筈だ。それでもその愛らしい少女には、驕りや高慢さの欠片も見受けられなかった。
一心に愛されて育った娘だから―――純粋な愛情は純粋な心を生んだ。
『初めまして、様。周公瑾と申します』
『硬いぜ〜周瑜!義妹なんだからよ!…、新しい兄様だ。ちょっとお堅いが、良い奴だぜ〜』
豪快な親友の言葉に、周瑜は苦笑を漏らした。いくら義妹でも、相手は君主の姫君なのだ。
それを言えば、孫策とて君主の跡取りなのだが。
『お兄様?…公瑾兄様?』
そんな周瑜を見上げ、少女は心底嬉しそうにその名を呼んだ。
兄、と呼ばうその無垢な瞳に周瑜は一瞬驚いた。
しかし、嫌な気はしない―――どころか、その呼び名は温もりを以て周瑜の胸に響く。
この愛らしい娘は、何処か守ってやりたくなる雰囲気を持っている。
『おお!良いじゃねぇか周瑜!』
『公瑾兄様、と一緒に遊んでくれますか?策兄様も!今日は権兄様と尚香姉様も遊んでくれるって言ったの』
自分に向かって伸ばされた小さな手。小さな、優しく温かい手。
愛される理由が分かる気がした。
『勿論良いぜ〜!なぁ周瑜』
『…ああ。私で良ければ―――…』
周瑜はふっと―――微笑んで、その小さな手を取った。
あれ以来、はずっと大切な妹だった。
周瑜は孫権も尚香も実の弟妹のように思っていたが、は本当に特別なのだ。
―――例え乱世の中でも…絶対に守り抜いてみせる。
孫策亡き今、その想いは更に強くなって周瑜に根付いていた。
「…皆の言う通りだな―――私はもう暫し、耐えて見せねば―――しかし」
―――しかし…は私が守る。
髪を掻き上げて笑った周瑜は、それでもやはり無理に笑顔を作っている―――その、瞳は笑っていない。真摯な炎を宿す双眸。
―――やはり、呉にはが居ないと駄目なのだ―――
その場にいた全員が、と尚香の早い帰還を―――それは策略の面から言えば喜ばしいことではないが、気持ちの上で―――望んだ。