「お前ならこの大任を果たせると…私は信じている」

「…趙雲様」

「必ず戻って来い。待っているから―――

約束した。
再び彼の人の元へ戻ると。

「お前が、か?」

「は。夏候惇様、でいらっしゃいますね…」

―――必ず、貴方の元へと…趙雲様。



錯綜



「夏候惇様」

は背中を向け合う己の上官を呼んだ。
夏候、元譲―――言わずと知れた、魏が誇る大将軍。
彼が背中を預けているという事が表すもの、それはの武への確かな信用と…彼女自身への絶対の信頼。

ちくり、と胸が痛む。紛れもない罪悪感。

自分はその信頼を裏切り続けているのだから。
夏候惇の元に来てから、いずれ…彼の元を去る日まで、ずっと。

は元々蜀の将軍・趙雲の副将であり。
軍師である諸葛亮の言によって、埋伏の毒として此処にいる。
忠誠を誓うは勿論劉玄徳であり、曹孟徳ではなく。

乱世では当然の策、故に。
初めは僅かも感じなかった罪悪感。

「此処を突破出来れば状況は逆転します」

「…ああ、そうだな」

「敵将は恐らく二人…三人。兵は三千ほど」

「…いける、か?」

にや、と笑った夏候惇に―――顔は見えずとも気配で解る―――は淀みなく頷いた。
凛と、気高い自信。
夏候惇は一瞬瞳を柔らかに細め…直ぐに真剣な表情に変わる。

「…行くぞ」

二人で協力すれば、突破はさして難しい事ではなかった。
夏候惇の片腕としての地位を確実にしつつある自分を感じ、は苦笑した。






殿」

「張遼様…」

「此度の戦での貴女の働き、見事でした」

「本当に。素晴らしい武でござった」

「…徐晃様、有り難う御座います」

勝利の祝宴で、は人に会う度に掛けられる賞賛の言葉に胸を痛めていた。
敵軍からの降将である自分に―――そういう事になっている自分に―――皆、とても良くしてくれる。

信頼

たったそれだけの言葉が途轍もなく重いものに感じられた。

―――私は貴女が情に流される事など無いと信じていますよ―――

蜀を出る前に聞いた軍師の言葉が思い出される。
忠誠は変わらず劉備に有る。だから自分は絶対に蜀を裏切らない。
それでも感情を無にする事が出来るほど、大人になれていなかった。

趙雲―――彼に逢いたい。
時々猛烈にそう思う事があった。

苦しみも痛みも、この罪悪感も全てをさらけ出して―――きっと、受け止めてくれる彼に。
己の甘えに自嘲の笑みを漏らしつつも、そう思う心は止められなかった。






か」

「只今参りました、夏候惇様」

その後も幾度か彼と共に戦場を駆け。
ある日、夏候惇に呼ばれたは、軍議から難しい顔で帰って来た彼に首を傾げた。

「どうか、なさいましたか?」

「…戦だ。劉備を討て、と」

その言葉にが反応―――するかと思っていた夏候惇は、微動だにしなかった彼女に些か驚いた。
は紛れもなく、自分が劉備軍から引き抜いた将。
嘗ての君主と戦うのに、多少は何か感じるものもある、であろうと。

は真っ直ぐ夏候惇を見て告げる。

「私は貴方の副将です、夏候惇様」

その視線に揺らぎは無い。
その様子に、暫く見詰めていた夏候惇はすっと瞳を細めて―――ふと笑い。

「そうだな―――詳しくは追って連絡する。今日はこれで」

礼をして下を向いた自分の目は―――夏候惇のそれから外された瞬間―――きっと震えている、とは思った。

「……」

の後ろ姿を見ながら、夏候惇はぽつりと彼女の名を呟いていた。



―――上手く、対応出来ただろうか。
動揺を表に出さないことは成功したように思う。
これは十分考え得る事態であったし―――その時に備えて心づもりもあった。

まだ、諸葛亮から策の執行を促す使令は来ていない。
策が最大の効果を発揮する時に軍師は密書を送って来る筈だ。
それが来るまでは、どんなことがあっても自分は「魏将」であり「夏候惇の副官」。
例え劉備と刃を交えることがあっても、だ。

上手く、蜀の将達と戦えるだろうか。
彼等は器用に魏の兵に怪しまれない態度を取ってくれるだろうか。
―――不安は、尽きないが。それでも自分が出来るだけのことをやるだけ。
は拳をぐっと握り締めて唇を噛んだ。






「劉備を逃がすな!追え!」

魏軍君主・曹操の声が高らかに響く。
長坂は劉備軍とそれに付き従う民、それを追う魏軍で溢れていた。

「夏候惇様、あれが劉備軍の最後尾かと!」

「ああ、そうらしいな!」

馬を飛ばす二人の将―――夏候惇とは、此度の戦の魏軍の先鋒を務めていた。
前方に見えてきた人の影。
の鼓動は少しずつ高まり…はそれを戦の空気による高揚の所為だと思い込むことにした。

「くそ、魏軍の奴らもう追いついてきたのかよ…仕方ねぇ、此処は俺が行くぜ!」

その列から一人の将が飛び出して来た。燕人張飛―――蜀が誇る豪傑の一人。
夏候惇は舌打ちをして向かってくる彼を受ける姿勢を作る。

、奴の相手は俺がやる。お前は先に行け…行けるか?」

の答えを最初から知っている問い掛け。

「はい、夏候惇様」

「…無理はするな。俺も直ぐに行く―――待たせはせん」

「…はい」

は一度ぎゅっと目を瞑って、馬の手綱を勢い良く引いた。
馬は嘶いて、再び高速で走り出す。

―――張飛様…夏候惇様…

気に、ならないと言えば嘘になるが。は真っ直ぐ前を向いて走った。

今、自分は夏候惇の副官である。
任務は劉備を討つこと―――本気で、そのつもりで…やる。
そうすることがこの策の為、劉備への忠誠の証なのだ。

は民を馬の足で傷付けぬよう細心の注意を払いながら真っ直ぐ劉備の方へ向かう。
そしてまた一人、今度は彼女を迎え撃つ為に将が出て来る。

―――趙雲様…

きぃん、と鋭い音がして刃がぶつかり合った。

「夏候惇将軍が副将・殿とお見受けする!この趙子龍とお手合わせ願おう!」

一撃一撃が、重い。
それは趙雲との力の差でもあるのだろうが、やはりそこに介入するのは…想い、だった。
それを隠しては必死に趙雲の相手をする。

「我が軍は今は退くが先決、お前を斬ろうとは思わない!下がれ!」

幾らが強くても相手は趙雲であり、傍目にも実力の差が明らかな撃ち合いに乗じて趙雲が言った。
こう、言っておけば―――を本気で斬ろうとしていない事の説明が付く。
その趙雲の言葉の意味を理解して、も台詞を模索する。

「…貴方に敵うとは思っていない!足止め出来れば十分だ!」

これで、命を掛けてでも彼に向かって行かない事の説明になる。

―――激しいぶつかり合いの水面下で、互いの思惑と想いが交差して。

更にどのくらいその場で戦っていたか―――そろそろ決着を付けねば、劉備に追いつくことが出来ない。
趙雲は僅かに躊躇いを覚えたが、力を込めての得物を跳ね上げた。

「―――っ!」

鋭い金属音と共にの槍が宙に舞う。
その無防備になった頭上へ、趙雲の刃が振り下ろされた―――勿論本気で止めを刺すつもりではなく、態と外すつもりだったが―――筈、だったが。
再び金属がぶつかる音が響き渡る。

「無茶を、するなと言っただろう、

と趙雲の間に、彼女を後ろ手に庇うように刃を受け止めた男。
―――その、隻眼の将。

「…貴方は」

「…か、夏候惇様」

の上官、である夏候惇だった。

「俺が相手だ…引導を渡してくれるわ」

その隻眼を鋭く細めた夏候惇は、睨み付けるように趙雲を見遣った。
その目をしかと見返し―――しかし、趙雲は己の槍を引く。

「否、勝負は預けておく―――」

趙雲はそこで一度言葉を切り、ふと目線をにずらし。

殿…今度の戦で」

深い意味の込められた言葉、だった。

普通ならば、次には決着を付けよう、と。そういう意味を成す言葉。
だが、趙雲がに向かって言えば。

―――次の戦が…その、時。

「趙雲!」

夏候惇の制止を振り切って、趙雲は馬首を返しす。

劉備軍は何とか苦境を脱し―――曹操の手から、逃げおおせた。






その夜、はどうしても眠る事が出来なかった。
諦めて溜息を吐いた彼女は身を起こし、上掛けを羽織って窓辺にその体を置く。

―――夏候惇、様。

仮初めの上司である男の名を繰り返し唱えて。

苦しい胸の内―――最早、夏候惇の信頼を裏切る罪悪感が全てではないことは解っていた。
人として、魅力ある人物だと思う。
夏候惇という人物に自分は惹かれている。好ましく思うし、尊敬もしている。

ただ強いというだけでなく、人望ある将だと。
今回の戦でも、彼が劉備軍の民には一度も手を掛けていないことをは知っていた。
そして、自分を庇ってくれる―――張飛との戦いは、そう易々と終わるものではなかろうに。
あの時、夏候惇が既にかなり疲弊していたこともには解っていた。

それでも。

の想いの向かう先は変わってはいない。

―――趙雲様…

彼が見出してくれた武を、彼が教えてくれた智を。
彼が輝かせてくれるこの命全てを、彼の人の為に―――彼の人が忠誠を誓う、劉備の為に捧げると決めたのだ。

何より、趙雲が自分に向けてくれる優しい笑顔と直向きな愛情は…にとって何にも変えられない大切なものなのだ。

この想いに嘘は付けない―――
趙雲のもとへ、帰りたかった。






諸葛亮から正式な埋伏の計執行の密書が届いたのは三日後だった。
その密書に目を通し、直ぐにそれを燃やしながらは溜息を吐いた。

やはり、夏候惇を伏兵の場所に導けというのが内容で。

灰になった紙を見詰めるの顔は暗い。

、良いか」

「どうぞ…夏候惇様」

そんな彼女の部屋を、原因である存在が訪れる。

「夏候惇様、何かご用が?」

「いや、特に用は無い。…最近お前が何時もそういう顔をしているのが気になってな。何かあったのか?」

「…そういう、とは?」

「今にも泣きそうだ」

「……」

その言い様に、虚を突かれたはぽかんと夏候惇を見る。
泣きそうだ、と夏候惇は言った。

―――言われてみれば。ああ、今直ぐにでも泣き出したかった。

「…

「…少々悩み事が…しかし、大丈夫です。ご心配をお掛けして申し訳有りません」



抱き締めることが出来たなら、どれ程良いか解らない。
夏候惇は瞳を伏せるを見ながら思った。

俺が居る、と言えたら。
自分が側にいるから大丈夫だと言えたら…
お前が、好きだと…
口に出せたら、どれ程楽になるか知れない。

そして、その震える瞳を拭えたら

それでも夏候惇は、が想うのは自分ではないことを知っていた。

「…大丈夫だ、。何を悩んでいるのかは…知らんが、お前の思うようにすれば良い…それは間違ってはおらん」

「夏候惇様…」

「この夏候元譲が保証する」

―――何処までも優しく柔らかく、深い目をしたひと。

「…夏候惇、様…」

―――とても、とてもお慕いしているのに。

「では、な。

―――それでも私は趙雲様を…

夏候惇が去ると、はその場に泣き崩れた。






戦が始まる。
今回も夏候惇の配置はやはり重要な位置だった。
当然のように彼に付き従うは、副将・であり。

剣を振るう夏候惇の後を、はただただ追い掛けた。
虚を…言い出す好機を、探りながら。

「…夏候惇様、あちらで友軍が苦戦している模様!私が、援軍に参っても?」

「…ああ。頼む、!」

優しい貴方を騙す戯れ言。
諸葛亮の張り巡らした策が、始まりを告げた。

友軍が持ち直すまで協力していたは―――簡単に持ち直すことが出来たのはの登場に蜀軍が態と加減したから―――更にその場を離れ、指定された場所を目指す。
同時に、偽の情報を掴ませた伝令を夏候惇のもとへ向かわせて。


―――胸が、軋む。


「何!?本陣が苦戦!?」

夏候惇には、敵の策により本陣が窮地に陥ったという情報が伝わった。
夏候惇はぎり、と奥歯を噛み締めて馬の腹を蹴る。戦える全ての兵を率いて、全速力で…己が主を護らんが為に走った。

「―――夏候惇様!!」

その中途で、自分を呼び止める副将の声。
夏候惇は僅かに―――瞳を揺らして。

!」

「此方に近道がございました!私も一緒に参ります!!」

「…解った!!」

既に駆けだしている彼女の後を追った。


―――心が、裂ける。


ある場所に差し掛かった時、閑散としていた前方の道が一気に人で溢れた。
夏候惇と後続の魏兵達は思わず、立ち止まった。が。

一人だけ―――だけが、何かを振り切るように真っ直ぐそこへと進む。
どう見ても蜀兵―――な兵士達は、彼女に手を上げない。

ざわ、と自軍がざわめくのを夏候惇は遠くで感じていた。

「……」

せめて此処で夏候惇の視線から逃れることはすまい、と。
見遣った夏候惇の瞳は予想に反して―――怒りではなく、悲しみが彩っていた。

そこまで驚いた風を、見せない。

「…そうか、これがお前の答えなら」

静かな瞳はだけを見詰めて。

「お前は、間違っておらん」

「―――っ!?」

が息を呑んだと同時に、周りの蜀兵が一斉に攻撃を開始した。

「―――夏候元譲殿、勝負!」

その声に、はっとは我に返った。
この、伏兵を統率しているのは―――

「趙雲か…この夏候元譲、このような所で終わりはせん!!来るが良い!!」

動くことが出来なかった。
ただ、二人が激しく打ち合うのを見ていた。

互角の対決は長い。
それぞれが傷を負い、相手を傷付けていった。

躯が震えて、動けない。

状況が長引けば―――士気が高い分、多少…趙雲が有利だった。
そして夏候惇の死角から生まれる一寸の隙を、趙雲が見逃す筈は無く。

「覚悟!!」

振り上げられた槍は、そのまま行けば確実に致命傷にもなり得る傷を夏候惇に与えていた。

それを見た瞬間、は無意識に走り出して。


身を、投げ出した。


「―――っ!?!?」

「―――なっ―――…!?」

は両手を開いて夏候惇の前に立ちはだかり、その身で趙雲の刃を受けていた。
直前で気付いた趙雲が速度を緩めた為、命を奪われはしなかったが―――深く、傷を負って。

「―――痛ぅ…っ!」

蹲るに、二人が同時に駆け寄る。

「「!!」」

先にその躯を抱き起こしたのは趙雲だった。

「…趙雲様…ごめんなさい…私、お邪魔、を…っ」

は瞳に涙を溜めて自分を抱く男を見詰めた。
の躯から流れる血液が趙雲の鎧を紅く染め上げてゆく。

「…私、私は…趙雲様…貴方、が好きで…貴方に、逢いたくて…っ、こうして、戻って、来ました…しかし、私は…夏候惇、様を…っ」

お見捨てすることは、どうしても出来なくて。

そう言っては涙を流した。

「…趙雲、様…夏候惇さま―――ごめんなさい…」

!?」

瞳を閉じたに、趙雲が慌てて呼び掛ける。
は既に意識を手放したようだった。苦しげな呼吸が彼女の状態を物語る。
その様子を黙って見ていた夏候惇は、ゆっくりと立ち上がって口を開いた。

「…連れて行け、趙雲」

「…何、を」

「我が軍はの策に嵌り壊滅…はもう務めを果たした。早く…手当てをしてやれ」

「夏候惇殿…?」

「…貴様も解っておろう」

を、連れ戻るべきはどちらか。
趙雲がを愛しく想っていることは解っている。
先の戦での手合わせの際―――を見る趙雲の態度で。

そう、夏候惇はが埋伏の毒であることに気付いていたのだ。
薄々感付いていたのが確信に変わったのは、が魏に来てから初めて劉備軍と戦をすると告げた、あの時。
もしも魏軍への寝返りが本当なら、はそれを聞いて少しも動じずに笑える程器用な娘ではない。
態と動じない振りを演じていたから―――微動だにしない、はをよく知る者から見れば不自然な反応だったのだ。

の悩みがそのことについてだったことも。

気付いていても、どうしようもなかった。
魏の為と自分の立場を考えれば斬り捨てるべきであったのに。

がいつか本当に自分の副官たることを望んでくれるようにならないか、と僅かな淡い期待を持ったのか
に騙されて果てるならばそれでも良い、とらしからぬ事を考えたのか…自分でも解らないが。


愛してしまったのだから、どうしようもなかった。


確かには趙雲から夏候惇を庇った。が自分を真に慕っていたのは知っている。
しかし、それでもに想いを寄せ…が想いを寄せるのは。

目の前で彼女を抱き締める男、趙雲だけなのだ。

が望んだのは貴様だ」

「それは…」

「…俺の首を取らねば帰れぬと言うならば、取れ」

「夏候惇殿…?」

「…俺はを副将としたことを後悔してはおらんと…伝えてくれ」

そう言って、放り投げるように麒麟牙を手放した夏候惇の目は本気だった。
これまで出来うる限りを魏の為に尽くして来た―――最期くらいは、自分の想いの為に果てても良かろう、と。
愛しい女を守る為に。

「…いえ」

だが、そんな夏候惇に趙雲はゆっくりと首を横に振った。

「…はそれを望みません」

「確かに望まんだろうが。の…命を守る為だ」

―――生きていてさえくれれば…後は趙雲に。

「夏候惇殿」

趙雲はの躯を抱き上げてそのまま馬に跨る―――離さぬようにしっかりとその細い躯を抱き締めて。
前を、向いたまま。

「必ず、伝えます。しかし、後は全て私が上手くやってみせる…お心、感謝します」

「……」

は私が必ず守ります。…次が、有れば。その時こそは決着を…夏候惇殿」

それでは、と告げた趙雲の背はみるみる遠くなっていった。

「…頼む…」

縋るような声を零した夏候惇は、しかし次に顔を上げた時には普段の彼に戻っていた。
このような所で立ち止まってはおれぬ。
夏候元譲の武―――もう暫し、魏の為に奮おうと。
配下を失った痛手は大きかったが―――その戦での夏候惇の働きは、見事なものだった。





「―――ん…」

全身を襲う怠さが何なのか解らないままに、は気だるい目覚めを迎えた。
見慣れた天幕の中で、自分は寝ていたようだ。
ゆっくりと躯を起こすと、全身に鈍痛が走っては眉を寄せた。

?起きたのか?」

ふと、頭上から聞こえたのはとても―――優しい声。

「…趙、雲さま…?」

「ああ…済まない、痛むだろう」

傷付けたのは自らの刃―――趙雲の心も痛かった。
はそんな趙雲の様子に自分の状態を思い出す。

「―――っ!」

何を言って良いか解らずに息を詰めたの肩を、趙雲は傷に触れぬよう優しく抱き寄せた。

「大丈夫だ、。私は大事無いし…夏候惇殿も、無事だ」

ぴく、と腕の中の肩が震える。

「辛い思いをさせたな―――…お前は、何も気に病む事は無い」

「趙雲様…」

が言葉に出せない気持ちや質問を汲んで、趙雲はそっと言葉をくれる。
やはり私は、この方が好きだと。
優しさに触れる愛しい想いが、今のにとっては余計に哀しみを煽った。

「夏候惇殿は」

その名前に反応して痛みを帯びる瞳に、趙雲は柔らかく口付けた。
その暖かさに、の涙腺は緩み。

「お前を副将としたことを、後悔していないと―――伝えるよう、私に」

大きな瞳は見開かれた後、耐えられずに大粒の涙を零した。
夏候惇を思い静かに、涙を零す自分の副将。―――愛しい、女性。
清く、優し過ぎる心を持つ彼女。

この想いに掛けて、守ると誓った。

「…

「…ごめんなさい…趙雲様…夏候惇様…」



趙雲は優しく名前を呼び、慰撫するように彼女の髪を梳かし続けた。

「…趙雲様…ありがとう、ございます―――…」

泣き疲れたが、再び眠りに落ちるまで。


「―――…愛している」


これまでも、これからも―――お前は私が守るから。
その、心―――私が癒し、支えるから。

が目を覚ましたら…否、目を覚ますまでも、ずっと。
抱き締めたこの腕は、もう二度と解かない。もう二度と、自分の側から離しはしない。

は私が守るから。

「信じていて下さい、夏候惇殿…」






―――呟きが、彼の隻眼の将軍に届いたかどうかは誰にも解らない。
その後も、魏の大将軍・夏候惇の名声は終ぞ変わることはなかった。
趙雲もまた、蜀の五虎大将として活躍を続け―――二人が再び戦場で出逢ったことが、有ったか無かったか、は。
誰かの知るところではなかった。

という女武将は、生涯趙雲の副将であり続け…趙雲を想い、愛し慕って―――彼の為に生きた。
ずっと、彼を支え―――支えられ、守られて。

しかし、彼女の心から隻眼の大将軍が消えたことは…一瞬たりとも、無かった。



時が流れて―――想いを封じ、魏に尽くしたその将軍が。
本当に、永遠の眠りにつこうとしたその時…最期に。

「―――…」

口にした名前が誰のものであったか―――知り得る者ももう、誰もいない。








猛将伝の立志モードをやっていて思いついた話です。
敵将に声を掛けて貰えると嬉しいですが、やはり裏切るのは抵抗がありますね。
上官かその将軍か、どちらかを絶対に裏切ることになるので…罪悪感でいっぱい(汗)
この趙雲&惇兄の組み合わせは珠瓔の実際の体験です。
自分の側に置くのではなく、本当に信じた者へ愛しい人を託すことでその人を「守った」惇兄の気持ちと、それを理解した趙雲の想い。少しでも表現出来ていたら嬉しい限りです。

ありがとうございました。ブラウザを閉じてお戻り下さい。