戦意
一瞬にして目の前が紅く染まった。
全ては今、斬り捨てた敵兵の流した血によって。
相手を屠ったその瞬間に自分が感じたのは、痛みでも恐怖でも苦しみでもなく―――
かと言って、哀れみや悲しみを感じた訳でもない。
満足感を感じる訳でもないし、楽しみや喜びが付いて来る筈もない。
ただ、武器が相手の体を斬り捨てた、その殺戮の感触が微かに手に残ったのみ。
この感触にはもう、とうの昔に慣れてしまった。
全ての感情を封印し、ただ機械的な戦闘を繰り返す。
―――何故こんな事をしているのか、何故こんなところに居るのか、そんなことはもう判らない。
遠い昔、主の覇道を信じて…厳密にはその覇道が大きな意義を持つものだと信じていた頃には、確か戦場に赴く事に何時も何らかの意味を見出していた―――つもりでいた。
そんな事に意味を求めるなんて、そう、無意味だった。
人殺しは人殺しだ。
それ以上でもそれ以下でもなく、そして見出そうとする「意味」…せいぜい自己満足の意味を持つだけだ。
ただ感情の付き従わないままに重ねる戦場で、武勲や賞賛を得ようとも、それらとて何の意味も成していない。
いつしか無表情に、無感動に孤高の武を振るう自分に付いた名も…やはりどうでも良かった。
―――戦場の、蒼牙姫。
「ほう…蒼牙姫が来ておるのか」
「その様だな」
己の従弟であり、臣下である男からの報告に、曹操は口端を僅かに上げた。
切れ長の瞳に、やや楽しそうな、何か企んだ様な色が宿る。
「―――孟徳。」
夏候惇はそんな主を見て眉を寄せた。どうせまた、邪な事でも考えているのだろうが。
蒼牙姫とは、今回の敵将の中で最も警戒すべき武将として報告された人物―――の異名である。
彼女は絶世の美貌を持っていた。そしてその美しさは、無表情な面と双眸に湛えた余りの冷静さ故に―――果てしなく冷たい印象を与えるものだった。何より、は強い。
如何にも曹操が興味を抱きそうな女だが、敵は敵であるし、警戒すべきである。
「判っておる、安心せい。…だが」
そんな徒弟の視線にも慣れていると言わんばかりにひらひらと手を振った曹操は、不意に真剣な顔をして目を細めた。
主の珍しい仕草に、夏候惇は訝しんで再度眉を寄せる。
「…孟徳?」
「儂はあやつを見てみたい、それは事実だ」
「……」
普段ならそこでまた諌めるという、鼬ごっこに陥りがちなところだが、夏候惇は何も言わずに黙って曹操を見ていた。
何故かは判らないが、見てみたいと言う言葉は判らなくもないような気がした。
自分は以前、戦場で…遠目にではあるが、彼女を見たことがある。
言葉で表現しにくいような、複雑な印象を受けた。どこか、引っ掛かると言うのだろうか―――そんな。
自分で自分の考えている事が理解出来なくなった夏候惇は、軽く溜息を吐き、その場に背を向けた。
「兎に角気を付けろ、孟徳。―――明日は早い、もう休め」
何処まで信用されていないんだ、とぼやいた曹操の顔には、既に先程の表情は無かった。
「気を抜くな!敵もやりおる!」
戦況は五分五分だった。
圧倒的な戦力を誇る敵軍を前に、曹操軍はなかなかの活躍を見せている。
そして今回、こちらには関羽がいる。先程、顔良撃破の報が入った。
…勝てる。
鳥巣の兵糧庫に向かった夏候惇が策を成功させれば、状況は一転するだろう。
それまでは、敵の猛攻に押されぬよう暫し耐えている他無かった。
曹操は自ら戦場に立つ。
自信を持って言える。この曹孟徳、袁紹ごときに負けはしない。
唯一気になるのは、相手の数の多さではなかった。
―――蒼牙姫。
曹操はどうしても、かの名高い戦乙女を見てみたかった。
その名の通りまるで蒼い牙だという、冷淡で美しいその刃を振るうの姿を。
ひと段落着いたら、自ら出陣するか…
曹操は胸中で独りごち、目の前の敵兵に向き戻った。
「―――お前が、…蒼牙姫、か」
夏候惇は鳥巣に辿り着き、兵糧庫を一気に落とそうとした。
兵糧庫の守衛らしき武将はにべも無く倒した。―――が、その場にはもう一人敵将が居たのだ。
どうやら、夏候惇が此処に来る事を事前に把握して、動いていた様だった。
間近で見るその姿は、夏候惇ですら思わず息を呑むほど美しい。
しかし、その双眸にはやはり何の感情も浮かんでいない。同じく抑揚の無い声で、は静かに言葉を発した。
「―――今は関係無い」
そのまま一息も置かず、は得物を夏候惇に向けた。
態度でもうこれ以上話す気の無いことを物語り、既に臨戦態勢を取っている。
「…良かろう」
夏候惇は、此処までに既に多くの血を吸った滅麒麟牙の露を払い、と向かい合う。
は、返り血を気にしている様子は無い。
蒼い美貌に紅く舞い散った生々しい血の跡が、の存在を更に異色なものにする。
―――やはり、何かが引っ掛かるのだ。
次の瞬間には、もうの体が目の前にあった。
ひゅっ、と空気を切る音と共に、寸前まで己の頭があった位置に正確な一撃が落ちた。
夏候惇はそれを寸での所でかわし、即座に身を翻して均衡を保つ。
も体勢を崩す事無く次の攻撃の構えに入る。
そのまま、何合打ち合ったか。夏候惇は疲れた風も見せず、黙々と対決に徹する彼女に思わず眉を顰める。
体力的には、己の方が有利だ。現にの息は上がってきている。
なのに疲れたという色を感じさせないのは…表情が、無いから。
それこそ眉を寄せるでもなく、歯を噛締めるでもなく。
武の力量を問えば確かに、強い。
体力の差などあっても無くても、これだけの技能があれば幾らでも補える。
だが、無表情―――それが彼女の致命的な弱点であることに、夏候惇は気付いていた。
瞳に色が無い。つまり、絶対に勝ちたいという闘志を持っていないのだ。
自分は主の為に、主の覇道の礎とする為にこうして刃を振るう。
絶対に勝つ。その意思がある分、自分が有利だ。
「終わりだ」
渾身の力で、夏候惇は麒麟牙を振り上げた。
は咄嗟にそれを受け止めた。―――が。
―――きぃぃんっ……
意志無き刃は、それを持つ牙を跳ね返すことが出来なかった。
の剣が高く空中に舞い、遙か後方の地面に刺さる。
は己の首筋に、強く冷たく光る麒麟牙が突きつけられた事を感じた。
「斬らないのか」
絶体絶命の危機だというのに、やはり無表情のままのが夏候惇を見た。
自分の命が有ろうと無かろうと関係無いとでも言うようなその態度に、夏候惇は問いを返した。
「斬って欲しいのか?」
―――何を言うのだろう、この男は。
私の命をどうするかなど、この状況で私が決める事ではない。
…だが、何なのだろう。
夏候惇はの纏う冷めた気配がごく僅かに揺れたのを感じた。
…一瞬、是、と答えてしまいたくなった。
「死にたいか?…否、逃げたいか」
夏候惇は同じような問い掛けを続けた。
そこに含まれる意味は計り知れないが、は久しく感じた事の無かった感覚が自分に戻るのを感じた。
―――私が、逃げたい…?
『殿の御為に戦いましょう』
『何時の日かの蒼天のために暫し耐えて見せましょう』
この辛い日々が掛け替えのないものに続くと信じている
『…この人では無理だ…』
『所詮平和などとは夢物語』
ならば私がしてきた事は全て無意味だったというのか
―――何かが、壊れた。
に感じた違和感。
彼女の絶対的な無表情、無感情は徹底していた。それはもう、本当に。
それなのに、何故か。
悲しみの悲鳴が聞こえるような気がするのだ。
心が軋む音が聞こえるような気がするのだ。
絶望の涙が見える気がするのだ
「…お前はもう逃げる事が許される身ではない」
戸惑うに、夏候惇は静かに言葉を続けた。
「死して逃げる事はお前が斬ってきた者達への一番の冒涜だ」
は夏候惇を見上げた。
その美貌の中に失われた何某かの感情を見出そうと、夏候惇は目を細めた。
「…進め」
『死にたいか』の問いに僅かに反応したを、夏候惇は見逃していなかった。
ただ無感情に機械的に人を殺める人物が、その状況に絶望を感じるだろうか。
自らの生を終わらせる事でその状況を終わらせたいと思うだろうか。
大分自分の主観が入った思考だという事は解っていた。
しかし、夏候惇は自分の考える「」が間違っているとは思わなかった。
絶望の涙が見える気がするのだ―――否、確かに見えるのだ。
夏候惇はの首筋に向けた愛刀の切っ先を下ろした。
は動かずにじっと夏候惇を見詰める。
「…進め。お前の信じる道を」
「…信じる、ものなど」
漸くが口を開いた。
「信じるものなど何も無い」
信じていたものは遠い昔に失った。
「信じる、など裏切られるのが落ちだ」
「そう思うか?」
突然入ってきた別人の声に、夏候惇とは揃って声の主を見遣った。
夏候惇は一瞬驚いた顔を見せて、その男の名を呼んだ。
「孟徳…」
「信じられるものは何も無いと申すか?」
「曹、孟徳…」
淡々と述べる男の名を、は呟いた。
敵総大将が何故こんな所に居るのかは知らないが、にはもう攻撃の術も気力も無かった。
「儂は天下を取る」
曹操はその鋭い目線をに向けた。
不思議な男だと思った。曹操も、夏候惇も。
只管覇道を突き進む者と、只管それを支える者。
「蒼牙姫…」
曹操はその視線を外さないまま、戦乙女に呼び掛けた。
「儂と共に来い」
「…何を言う」
「何が正しいかなど解る筈が無い」
今度は夏候惇が口を挟んだ。
「自分の信じたものが正しいかどうかは解らん。だからからこそ、何かを信じるのだろう…」
は何も言わない。
「無くしたなら再び作れば良かろう」
信じるものを。にや、と笑って曹操はを見た。
「……」
「儂は天下を取る。絶対に裏切りはせん」
何処から出る自身なのか定かではないが、は確かに曹操なら覇道を極められると思った。
―――先程は正直、やっと終わった、と思った。なのに私は再び戦場に戻るのか?
「天下を取ったら、どうする?」
は曹操の瞳を見て問うた。
「さてな。進めば自ずと見えて来よう」
実に彼らしい答えに、の口許は僅かだが緩んだ。
何時以来か解らないその緩みがもたらした変化は絶大で、それはの本来の美しさを醸し出すように感じられた。
「…戦場の華とは正にこの事よの…」
思わず呟いた曹操に、はゆっくりと言う。
「 」
「此度の戦はに任せる」
「御意に」
「…早う戻って参れ」
跪いたは己の君主を見上げて、この上なく美しい微笑みで答えた。
「はい、殿」
「。次の戦に出るそうだな」
「はい」
「そうか」
「必ず戻って来ます」
「そうか」
を見る夏候惇の視線は優しかった。
志を同じくする美しい同僚。
そして、この国にもとっても、自分にも。…あの男にとっても。
今や無くてはならない大切な存在となった彼女に―――
「行ってこい」
の後ろ姿を、夏候惇は暫し見送った。
―――この道を信じましょう。
大切なものを取り戻してくれたあなた達の信じる道を、
切り開くのは自らの腕だから
貴方の為でもあり、何より私の為に
『進む事を選びましょう…』
―――この道を信じましょう。
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*
*
信じていたものが崩れて絶望に感情を無くした人と、只管に信じるものを追う二人。
珠瓔の語彙では揺れるさんの心をなかなか表現出来ませんでしたが、私は差し伸べられた手を取るって、実は勇気の要る事だと思います。
そして二人ともさんにやられちゃってますが(笑)明確な恋愛感情と言うよりは、この話では特に「大切なもの」って感じです。
ありがとうございました。ブラウザを閉じてお戻り下さい。