追憶
目を開くことさえ億劫に感じる怠さが躯を包んでいる。
聡い彼が己に迫る死期に気付かない筈もなく、しかし表情を露わにしない彼の顔からはそれについて何らかの感情を読み取ることは出来ない。
乱世の奸雄と呼ばれた君主に仕え、そのあらゆる才―――様々な意味で―――を引き継いだその息子の片腕として活躍し、その後の政治の実権を掌握した男。
乱世を君主としてではなく参謀として見詰め、全てが終わった後に世を自分のものにした男。
世間は彼、司馬懿をそう評して敬い、そして恐れた。
司馬懿にとっては世間が自分をどう評価しているかなど、取るに足らないことに過ぎなかった。
否定するつもりも肯定するつもりもない―――下らない。
「私が消えた後は…好きにするが良い、仲達」
ふと、嘗ての君主の言葉が頭を過ぎった。
彼は見抜いていたのだろうか
自分は何時までも彼の天を守って生きるような人間ではないということに
最も、今の司馬懿にはそれすらももう、取るに足らないことのように思えた。
自分のこれまでを振り返ってみる気にもならない。
変わりに自分の思考を奪うのは、思い返すこともなく長い間忘れていた、遠い昔の出来事だった。
『司馬懿様!』
何が嬉しいのか緩められた桜色の唇、窓の向こうの日差しに透ける白い肌。
自分の名を呼ぶ柔らかな、声。
『…司馬懿さ…ま…』
潤んだ瞳と伏せられた睫毛、悲しげに苦しげに寄せられた眉。
華奢な躯を染め上げる…紅い色。
自分の名を呼ぶ、声。
最期に見た表情は、笑顔だった。
「…おい」
司馬懿は朝執務室に入り、机を見た途端に傍に居た女性に声を掛けた。
彼女の名はと言う。
事実上司馬懿の副官に当たる文官だったが、司馬懿が彼女の名を口に出して呼んだことは一度も無かった。
は慣れた態度で、穏やかに司馬懿に問いを返した。
「何でしょう、司馬懿様?」
司馬懿はの問い掛けには答えず、無言で目の前の物体を指差す。
「お花、が何か?」
「必要無い物を机の上に置くな」
無表情な司馬懿の何の愛想も無い言葉に、は些か怯んだ様子も見せずに微笑んだ。
「司馬懿様、花には人を和ませる効果が有るのですよ?」
子供に言い聞かせるようなの言い方が気に入らなかった司馬懿は、今度は明らかに怒気を含んだ表情で声色を凄ませる。
「私には必要無いと言っている!」
「司馬懿様、そうは見えませんわ」
くすくすと穏やかに笑い、なだめるように司馬懿を見上げるに、「必要無い」と言いつつ怒鳴った自分の矛盾に気付いた司馬懿は更に眉を上げ、ふんと鼻を鳴らしてから顔を背けた。
司馬懿を上手く扱えるのは魏の中でもだけだと言われている。
司馬懿はこの穏やか過ぎる女性がどうにも苦手らしく、しかし有能な彼女を私情で辞めさせるような真似は彼の最も嫌うところであり―――結果、こうした光景がしばしば見られるようになっていた。
それは、ある意味でとても微笑ましく。
誰もがその光景は、永遠に続くと思っていたのだ。
その日、の表情は心なしかいつもより険しいように感じた―――そう、言っていたのは誰だったか。
穏やかに微笑んでいることには変わりないのだが、どこかに違和感を感じるのだ。
司馬懿も聡い人間なら、それを察しない筈も無く。
しかし、内心そのことが僅かに気になっていることを隠すかのように、司馬懿は何時も通り―――それ以上に、冷淡に彼女に接していた。
「其方の書簡はまだか!」
「申し訳御座いません、司馬懿様」
司馬懿は、心なしか伏せられたの睫毛の長さに気が行ってしまう自分に嫌気が差し。
諦めたように、吐き捨てるように言葉を発した。
「…どうかしたのか」
「…いいえ、大丈夫ですわ」
何故本当のことを言わぬのだ。
柔らかなの表情に司馬懿の機嫌は更に悪くなり、苛々を排除するように言葉はきつくなっていく。
「…仕事の邪魔だ」
理不尽な司馬懿の言葉に気を悪くするでもなく、は顔を上げ…じっと司馬懿を見詰めた。
その直視に司馬懿は戸惑うが、それを見破られまいと、なんとか表情を取り繕う。
「…何だ」
「…司馬懿様…」
ぽつり、とが司馬懿の名を口にした。
その、の初めて見るような不安げな様子に司馬懿が顔を顰めた、その瞬間。
ばん、と大きな音を立てて、司馬懿の背後の扉が開かれた。
「騒がしい!何事だ!!」
「―――っ司馬懿様!!」
―――夢を、見た。
いつもの何気無い見慣れた執務室で、いつものように主は怒っていて、それでも時間は平和に流れている。
それが突然、一瞬にして壊れる夢を。
翌朝の雰囲気が夢の中と余りに酷似していて、はずっと落ち着かなかった。
司馬懿が突然居なくなってしまうのではないかと思うと苦しかった。
思い切ってそれを打ち明けて、馬鹿めが、と一蹴して貰いたい、と。
そう思った瞬間に。
『―――っ司馬懿様!!』
扉から勢いよく突っ込んできた男は、俊敏な仕草で真っ直ぐ司馬懿の懐に飛び込んで来た。
咄嗟のことに、戦に出るといえど軍師である司馬懿は反応することが出来ず、男が手に握った、不吉に光る刃はそのまま司馬懿の躯に突き立つ―――筈だった。
「…っ!」
だが、自分は立っている。
変わりに倒れたのは、先程まで自分の正面に立っていた女だった。
男は計画の失敗に舌打ちをして―――その場で、自らの命を絶った。
の大声に異常を感じたのか、警備の兵達が慌てて走ってくる足音が近付いて来るのが聞こえる。
そんなことが、全てどこか遠くの世界の出来事のようで。
「……司馬懿様、御怪我は…」
が言葉を発したことで、漸く司馬懿は我に返った。
彼女は苦しそうに眉を顰めながらも、なんとか体を起こそうとしている。
その腹部から溢れる、紅い液体。
「…馬鹿めがっ、喋るな!」
司馬懿はしゃがんで、その行動を制止する。
「…司馬懿様…」
は起きることを諦め、力無く横たわりながら司馬懿を見詰めた。
「…申し訳、御座いません」
これでは執務を最期までこなせませんね、と苦笑するに、司馬懿は自分の頭に血が上るのを感じる。
何に対してか解らない怒りが体中に渦巻いていた。
暗殺者の進入を許した護衛の者にか、女に庇われた自分にか、こんな時にも笑っているにか。
「…許さぬ!」
回復するまでは待ってやる。だから、執務はやってもらう。
そんな言葉しか浮かばない司馬懿に、は今度は苦笑ではなく綺麗な微笑みを見せた。
「幸せ、でした―――貴方にお仕えして…」
弱々しくなっていく彼女の声に、司馬懿は拳を握り締めた。
そして―――決意したように、の細い躯を、その血に染まる上半身を抱き起こす。
は驚いた顔をして…その後、甘く破顔して。
この方が好きだった。人としても、男性としても。
厳しくても怖そうでも、本当はとても優しい人間だと知っていたから。
優しいからこそ、辛いからこそ、もっと厳しくなるのだと解っていたから。
だから、支えてあげたいと思った。
失いたくなかった。
「司馬懿さま…」
女として見られていなくても良い。
便利な副官でも、小間使いでも良い。
例え、褒められることが一度もなくても。
例え―――名前を呼んでくれることすらなくても。
今だけは、こうして抱き締めていて欲しかった。
の細い指先が司馬懿の頬へ伸ばされた。
司馬懿は動かず、されるがままにを見詰める。
「…貴方が…大切でした…」
ふ、と瞳を閉じたに。
司馬懿は無意識に口を開いていた。
「……っ!」
初めて紡がれた響きに、は瞳を閉じたまま淡く微笑んだ―――様に見えた。
答えるように、彼女は微かに唇を動かして。
「…司馬懿…さ…ま…」
それが、の最期だった。
衛兵達が司馬懿の部屋に着いた時には、物言わぬ一人の男と、無言でを抱き締める司馬懿が、果てしなく静かな空間を作っていた。
その後、暗殺を企てた者達も捕まり、事件は終焉を迎えた。
は朗らかで人気のある人物だった為、多くの人がその死を悼んだ。
しかし、司馬懿の無表情からは誰も彼の感情を読み取ることは出来ず。
司馬懿の胸中は、誰も知らないところとなった。
本人も解らなかった…今思えば、あれが「悲しみ」なのか。
「痛み」とは、ああいうことを言うのか。
全ては遠い遠い過去…
司馬懿はゆっくりと瞳を閉じ、脳裏に浮かぶの笑顔に―――僅かに、ほんの僅かに口許を、緩め。
「……」
生涯でたった二回目の、かの名前を呟き―――眠りに、堕ちた。
深い深い眠りへ。
彼女の待つ、永遠の眠りへ。
―――司馬懿様……
忘れられた情景と、封じられた心は、
永い永い歳月の末に再び回り出した。
ひとの世を遠く離れて
争いのない、穏やかなこの場所で―――
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9月7日は司馬懿の命日だったと言うことで、追悼小説もどきを書いてみました。
時間が無くてかなり遅れましたが(汗)
司馬懿の思い出なので、さんと司馬懿の関係は詳しく書かれてませんが、さんは司馬懿の不器用な感情を解ってあげられる唯一の人、を意識して作りました。
司馬懿殿に今、安息の地がありますように。
ありがとうございました。ブラウザを閉じてお戻り下さい。