初陣

成都の戦い、蜀軍出陣直前―――。


「大丈夫なんだろうな…怪我なんか、すんじゃねぇぞ」

「大丈夫。父上こそしっかり」

心配げな張飛に、星彩は涼しい顔で答える。
何を今更、とでも言いたげな表情で。

「危なくなったら、父上か私の元に来ると良い」

その様子を傍で見ていた趙雲は苦笑し、続ける。

「尤も、その必要も無さそうだが」

趙雲の言葉に星彩は僅かに苦い表情を見せた。―――が、張飛も趙雲もそれには気付かず。
星彩は一瞬で元の表情に戻り、何時も通りの抑揚のない声で短く、言った。

「…はい」



「…星彩?どうしてこんな所に居るのですか?」

背後から掛けられた声に、星彩は振り返る。
相手は声だけでも分かる。諸葛亮付きの文官、だ。
その民政の腕は抜群で、諸葛亮を内側から支える女性だった。

「…殿」

「星彩?」

は不思議そうな顔を星彩に向けた。彼女は今から、初めての戦に赴こうとしていたのではなかったか。
先程、門前に出陣する武将と兵士が集められた。その中に、居るのを自分は見たのだ。
従って、こんな所に居る筈がない。此処は諸葛亮の執務室の前なのだから。
は星彩の瞳を見る。その、何処までも真っ直ぐなの視線に…星彩は何時も戸惑うが、何故か反らす事が出来ないのだ。は表情に乏しい星彩の顔を暫し、見詰めていた。

「星彩」

再び彼女の名を呼び、は不意にその整った顔に、口許に微笑みを浮かべた。
武装した己と向き合うには余りにそぐわない、柔らかな微笑みを。

「最初から、完璧に強くなる必要なんてありませんよ」

そのままの表情で、は言った。その言葉に、星彩の表情が微妙に変化する。
その僅かな変化を、は見逃してはいなかった。

「…不安を覚えない人なんていません。頑張って頂きたいですが、無理はしないで下さいね。貴女の事が心配で堪らないお父様もいらっしゃるのですから」

お父様だけではありませんね、先ほどお会いした劉禅様も相当でした、無論私もですよ、と独りごちるに。
星彩の表情が、やはり僅かながらも―――緩んだ。
の柔らかな微笑みは少しも変わらない。何時もそうなのだ。
どうしてこの方は、何も言わないのに…分かってしまうのだろう。

「父上も趙雲殿も気付かなかった…貴女は、凄い」

本当にそう思います。そう言う星彩の表情も、緩められたままだった。
父が心から自分を心配しているのは知っているが、それは実際の戦場で戦った事のない自分がきちんと己の力を出し、無事に戻る事が出来るか…という方向に向いている。
生粋の武人である父らしい、と思う。張飛は星彩の繊細な不安には気付いていなかった。

「星彩?」

自覚は…無いらしいが。
は他人の心の内を、その中に隠された負の部分を、何も言わなくても汲み取っている。
そして、溶かしてくれる。その柔らかく優しい微笑みで、小さな心の闇を。

どんなに外見は平静を装っていても、やはり何処か不安だった。
初めて戦に行く―――不安になって、当たり前、かもしれない。
それでも、星彩は自分にそのような感情を認める訳にはいかないと蓋をした。

いざ出陣するまで、少々空いた時間。―――気付いたら、此方に足が向いていた。
甘えているのかもしれない、この微笑みに。
否、甘えとは微妙に異なるだろう。癒しを求めている…そんな所だろうか。
父である張飛の親友として…今まで自分を見守ってくれた趙雲の、隣で何時も笑ってくれた人。
尊敬する趙雲の、永遠の伴侶。自分にとっては、母であり、姉であり、妹のようで…友でも、ある。
―――安堵を、くれる人。

「行って参ります」

その場で、星彩は真っ直ぐを見て礼を取った。

「…いってらっしゃい」

柔らかな表情に、やや真剣な色が宿る。
最後に星彩はふ、と表情を明らかに崩した。そしてまたいつもの無表情に戻り、に背を向けた。

「…ありがとうございます」

意識するでもなく、星彩は宙に向かって呟いた。



「かなわねぇなぁ…」

ぼそ、と漏らした張飛に趙雲は内心深く頷いた。
―――ああ、全くその通りだ。

いつの間にか居なくなった星彩を探してみれば、と一緒にいて。
何となく話し掛けにくい雰囲気だったので、二人は曲がり角の向こうに立ち止まっていたのだ。
と星彩の話し声が聞こえた。話している内容も…聞こえていた。

「流石、趙雲の選んだ女だけのことはある!否、お前には勿体ないくらいかもしれんな!」

そう言って笑う張飛に、勘弁してくれ…と趙雲は苦笑を漏らした。
ああいう場面を見ると、つくづくの事を誇らしく思う。今でも夢かと疑いたくなる事があるくらいだが―――の姿に、人を安堵させる力を持つ己の…伴侶に。愛しい、と思う気持ちが止まらなくなるのだ。
自分も、救われた人間の一人だ。自分を立ち直らせてくれたあの時から―――の微笑みは少しも変わっていない。

『子龍様は―――独りでは、ありませんよ…』

ああして誰にでも平等に優しい笑顔を向けるの姿に、嫉妬を覚えた事もしばしばだったが。
今では、が趙雲だけに見せる、はにかんだような笑顔も知っているから。

物思いに浸っていた趙雲に、張飛が声を掛ける。

「お前はいいのか」

「何がです?」

「ったり前じゃねーか、だよ!」

「…昨日、もう話はしましたから」

豪快に肩を叩く張飛の腕を押さえ、趙雲は穏やかに言う。
趙雲の表情に迷いは無い。
戦の前だというのに、己の妻に少しでも会いたくないのか…
そんな表情の張飛に趙雲は真っ直ぐ前を見てきっぱりと言う。

「行きましょう、張飛殿。我々が今やるべき事は、殿の御為に戦う事です。」