廻り廻る +始まり+



「私が孫尚香よ。よろしく、劉備様」

は、これから一時とはいえ姉の夫、自分の兄となる人物を見て少しの安堵を感じていた。
表面上は穏やかな婚姻だがこれは明らかな政略結婚であり、姉を慕うとしては、それでも気丈に振る舞ってきた尚香の姿を見るのが辛かった。
劉玄徳は穏やかな瞳を持った義を弁えた人物だ。そうは聞いても、実際に自分で確かめなければ不安だった。
だから此度、兄と周瑜に無理を言って姉に随伴する許可を貰ったのだ。

でも、きっと大丈夫。
あの人なら尚香姉様とやっていける。

「では、奥方様」

「分かった、今行くわ。…じゃあ、後でね」

「はい、姉様」

「―――それと、ありがとう。大丈夫よ」

尚香はそろそろ宴の準備を、と声を掛けて来た女官に明るく返事を返し、に微笑んでその場を辞した。
を心配させまいとする姉の気遣いが嬉しくて、も知らず微笑みを漏らした。






「孫様でいらっしゃいますか?」

「あ、はい」

宴を待っていたに声を掛けて来たのは、周瑜に勝るとも劣らない端正な顔立ちの若い男だった。
僅かに困惑したに、青年は深く礼を取って続ける。

「この度貴女の護衛を務めさせて頂きます、趙子龍と申します」

「…ちょ、趙将軍ですか?」

「は。貴女は殿の大切な妹御…どうか私の傍を離れられないよう」

戦場に出ないでも知っている、武の誉れ高い青年の登場には些か驚いた声を上げた。
しかし、何処か劉備と似た雰囲気を持っている彼の穏やかな表情と声はを不安にさせるものではなく、はごく自然に答える事が出来た。

です。よろしくお願いします」

少女の明るい表情に、青年も緩やかに微笑む。

「では、様もお召し替え致しましょう!」

「え、あの、私は…」

待ち兼ねていた女官達に引きずられるようなの後に、趙雲はゆっくりと従った。




「…あの、趙将軍」

準備が終わるのを部屋の前で待っていた趙雲に、は恐る恐る声を掛けた。
を見た趙雲は、彼女に分からない位僅かに目を見張って驚く。

「…これは、孫様…」

「へ、変じゃないですか?」

腰弓姫たる姉ほどではないが、普段出来るだけ動きやすい服装を選んでいるは慣れない豪勢な衣装に戸惑ってしまう。

「とても…良くお似合いですよ」

「本当ですか…?」

「ええ」

趙雲の言葉に、は素直に嬉しそうな表情を見せた。






「今回の婚姻は蜀にとっても非常に重要なものです。―――言い方は悪いですが、今の蜀には孫呉の力がどうしても必要なのです…よって、何としても成功させなければなりません。孫尚香殿には絶対に何もないよう注意を怠らないで下さい。…それと、どうやら孫家の末姫、孫尚香殿の妹御が共に参られるとの事…此方にも十分な配慮が必要です。―――趙雲殿、貴方にその役目を担って頂きたい。孫殿の護衛を」

自軍の軍師の言葉に異を唱える訳は勿論無い。どんな任であろうと、君主の為となるのならば喜んで全うするのみだ。
だが、正直に言えば、今一気が乗らない任務ではあった。
守るだけなら良いのだが―――女性の相手など皆目得意でない自分が、姫君の話し相手になれる気はとてもしなくて。
彼女の機嫌を損ねてしまうのではないか、と思うと少々不安でもあった。

華燭の宴当日、主の奥方となる女性を見て、趙雲は少々面食らっていた。
型破りな武闘服に短い髪、元気で快活な様はとても…奥方様、という雰囲気ではない。
あの方の妹御なら、孫様もああいう女性なのだろうか。

少しの好奇心と共に、佇む女性の後ろ姿に声を掛けた。

『孫様でいらっしゃいますか?』

振り向いた彼女は、女性、というよりはまだ少女の面影を色濃く残した可愛らしい顔立ちをしていた。
驚いたのは、その瞳。
碧みがかった深い彩りの瞳のあまりの純粋さに、趙雲は一瞬吸い込まれそうな心地を感じた。

女官に連れられて歩くを見ながら、趙雲はゆっくりと歩いた。
姉に比べれば、ある意味姫君らしい雰囲気がにはある。
それは何処かおっとりした優しいもので、決して嫌みを感じるものではなかった。

着替えを済ませて、出てきた彼女の姿に息を呑む。
先程の可愛らしい姿とはまた違う、鮮やかに美しいその姿。
意識せずとも自然と、言葉が漏れた。

『とても…良くお似合いですよ』




―――最初に出逢った時から、自分はに何かを感じていたのだ。




本当によく似合う…ぼうっと思っていた趙雲にが不思議そうに声を掛ける。

「…趙将軍?」

「…趙雲で構いません」

「じゃあ趙雲様、私もで良いです!」

「…様。参りましょうか」




華やかな宴の席は、間も無く始まろうとしていた。
の姿に息を呑んだ者が一人や二人でない事は趙雲には直ぐに理解できたが、何も感じていないらしい当の本人は、間も無く現れるであろう姉の事しか既に頭に無いようだった。

(これは、苦労するかもしれないな…)

だが、この少女を守る事に不思議ともう躊躇は無かった。もっと見てみたいのだ…このという少女を。
趙雲は密かに微笑んだ。




あの日、あの時から、壮大な運命は回り始めた。
―――世界の全てを、その手中に抱き込んで―――




!何してるの?」

「あ、姉様!馬超様が御馬を見せて下さるって」

回廊で妹の姿を見付けた尚香は、後ろから元気に抱き付いて尋ねた。
の嬉しそうな表情の理由は恐らく、大好きな姉に会えた事、蜀の将軍が良くしてくれる事、動物を見られる事…他にも何かあるかもしれないが、可愛い妹が楽しいに越した事は無く、尚香もつられて笑顔になる。

と尚香はすっかり蜀の陣に馴染んでいた。

尚香と劉備は皆の心配に反してとても仲睦まじく過ごしていたし、は既に蜀でも人気者になりつつあった。
の傍には、趙雲の他にも常に誰かが居る。

(…今日は馬超ね)

尚香は楽しそうに微笑んだ。
呉に居る時も、はその優しく明るい性格と可愛らしい外見で絶大な人気を誇っていた。
大切な妹を易々と頼りない男共に渡す気も無いが、大好きな妹が皆から好かれるのは嬉しく思う。

―――父や兄達もきっと同じ事を思っていただろう。

今は無き父と長兄を思い出して尚香は僅かに苦笑したが、直ぐに元の笑顔になってから手を離した。

「じゃあ、私はちょっと用があるからまた後でね!趙雲、を頼んだわよ!」

「畏まりました、奥方様」

それまで黙って微笑ましい姉妹の様子を眺めていた趙雲にも明るく声を掛け、尚香は再び走っていった。

「参りましょうか、様」




厩でを待っていた馬超は、趙雲を見て顔を顰めた。

「何だ趙雲、またお前か」

俺は殿だけで良いのだがな、と冗談めかして言う馬超に趙雲も負けじと眉を寄せる。

様を寄りによって貴方と二人で過ごさせる訳にはいきません」

「失礼な奴だな…」

「本当の事でしょう。それに任務ですからね」

「ご苦労な事だな。殿、此方に」

馬超は肩を竦めて趙雲を見た後、表情をころりと変えてに近付き、さっさと馬の方に行ってしまった。

任務、と自分で言っておいて趙雲は小さな違和感を覚えた。
何故だか分からないが、任務だから、と言う響きは何処か自分の感情に沿っていない気がする。

「可愛い〜!」

(…まぁ良いか)

気の抜けるの声に思考は中断され、趙雲は笑って二人の元へ向かった。